KSTF2018 【講評】菱井喜美子

菱井喜美子 -Hishii Kimiko-

A-1 エイリアンズ「オールドブルー」

 エイリアンに実験体として拉致されたと妄想した男は、気がつけば一人で閉じ込められている白い部屋から逃げ出し、エイリアンに捕まらないために一心不乱に走り続ける。

と、その時強い音と光が男を包む。……….男はトラックにはねられてしまうのだ。

ここからこの男、認知症を患った老人の、これまでの人生の記憶が、一瞬にして蘇ることになる。

まだ産まれる前、卵子から何のために生きるのか、自分の色は自分でみつけろとメモ帳を渡されたこと。( 以来、男はそのメモ帳にいろんな色を書きつけて行く。)

幼児の頃の父母の愛情について。

小学生の頃、学校の兎を友達と小屋から逃がしてやったこと。( 何故なら、自分達も兎も境遇的には同じで、檻の中に閉じ込められていると言う考えから。)

それが先生に見つかり二人で逃げた、聡い友達の思い出。

それから高校生の頃、一人の女の子を好きになり、告白した時のこと。

そしてその彼女は不治の病だと知らされ、恋は儚く散ってしまったこと。

やがて男は就職して、毎日すし詰めの列車に乗って会社勤めの傍ら、自分の色を探し続けること。( 作者は、人類は更なる発展のため、スピードを追い求め利潤を突き詰める。が、その先の幸福とは?と問いを投げかけてもいる。)

このようなエピソードが、走馬灯のように駆け巡り、人の一生が描かれて終わるのだが、

介護施設に預けられた老人の、過っての部屋にはメモ帳が残されていたのだと言う。

 舞台を観劇しただけでは、このストーリーが分かり難く、理解できなかったところを、台本を読ませてもらって、はっきり辿ることが出来、今 感激している。

よく書かれていると思った。

 舞台が分かり難かったのは、4人の俳優だけで、一人がいろいろな役を、孫になったり主人公の老人にもなったりして、話が進められて行く点にあったのではないだろうか。

 それに、これは大変面白いと思ったのだが、4人のキャストが常時、走り回りながらセリフを言うことで、舞台に緊張感とテンポを持たせていることだ。

走りながらのセリフは、俳優にとって大変な負担になるだろうが、女性も男性によく付いて行っていたと思う。

 ただし全体的には少し力み過ぎる嫌いがあって、声量は大きくてよいのだが、ガンガン響いて聞き取り難いところがあり、これも語りで進行する舞台では、言葉を観客に解らせる配慮が欲しかったと思った。が、面白い作品だったことには間違いない。



A‐2 劇団洗濯氣「桜散る頃、蝶は舞う」

「人は愛を追い、愛を愛し、愛を渇望し、愛に溺れ、愛に依存し、愛に焦がれ、愛に苦しみ、愛に生き、愛に死ぬ」と前説にあるように、ロマンティックな恋物語とは程遠く、男を恋するあまり、恨みと憎しみが高じて女は鬼になるという、女の業のような凄まじい内容だ。

女は自分の腹に宿した子供のことも忘れて、男の愛を求めて行く。

この世に産まれて来られなかった子供は、鬼として女の周りに現れては、女の愛人を殺して行くのだ。

女が恋した男は物書きで、女を手玉に取りながら、女を題材にした本を書く。これが「蝶は還らん」だそうだ。

ここまでは分かるのだが、次に出て来る現代の作家志望の男の登場の必然性だが、どこにあるのかが分かり辛く、これは単に現代を映し出すためのものかと、観劇した時は思った。

女の中では、この現代の男が自分の愛している男に似ている、というところで結びつくのだが、女とはそれだけの関係で、この男も女の本を書き、夢がかなってその本が出版され、これが「蝶雅物語」だそうだ。

それから男は大企業の跡取りで、祖母や母親が周りに出て来て嫁取りの話などで、家庭の雰囲気が盛り込まれている。

故にこの作品は、女を介して、この二人の男の世界がどう結びつき絡みつくのかではなく、最後に子供の刀に倒れる女の発する言葉から、子供を桜と名付け愛していたこと、家族を持ちたかったことなどの思いが伺われて、その線を誘導するための現代の男の登場だったのだと、台本を読んで理解することが出来た。

演劇祭の作品の中には見当たらない、時代がかった雰囲気は、観て楽しむことのできる舞台になっていたし、キャストもしっかり演じていて、ソツなくまとめ上げていたと思う。



A‐3 ポゴラジオ9%「えらび」

 素晴らしいと思った。

 人生を一刷毛で描いてみせている。

 勿論自身の書いた作品を自身で演じるのだから、内容はよく掴んでいるのは当たり前だが、その内容を如何にして観客に伝えるかという点では、他の舞台では見られない、独自のものがあり、在り来りのようでいて、なかなかこのスタイルを取るには勇気がいると思う。

 これだけエンタメの盛んな雰囲気の中にあっては、貴重な作品ではなかっただろうか。

 決して観客に迎合したり、ダイレクトに訴えたりせず、中身だけを男は一人でとつとつと物語って行くのだ。

 一脚のパイプ椅子と一台のビデオカメラだけの小道具を使って、客席を忘れ、そこにいるだろう人物に向かって、また誰かに残す映像を取るためのカメラに向かって。

  舞台はいつも海の波の音が聞こえている。

  子供の時に生みの親と別れねばならなくなったいきさつ、

血の繋がっていない母親を実の親だと思い、

結婚して子供が出来て、離婚して子供と別れ、母親と思っていた人は死に、生みの親に問えなかった答えを求めて会いに行き、

それから、最後は昔からの友達と二人で海の写真を撮りに旅に出る。

私は固唾を飲んで、その言葉を聞き漏らすまいと耳を澄ました。

忘れられない作品となった。

残念に思ったことは、後ろの客席では聞こえないとの声が多かったそうだ。

それと言葉の語尾が消えるところがあるので、発声と物言いの訓練にも時間を使ってはどうだろう。

それから、全体的に湿っぽく感じたが、もう少しクールな面もあればと思った。



B‐1 劇団ACT「ドグラなマグラ」

この作品は2017年の11月に卒団公演として初演されていて、その時の舞台を私は観劇している。

出演者のほとんどが3回生だったはずが、4回生になった今回も再演しょうとするのは何故か。この作品に対して相当な思い入れがあるのだろう。

この作品は、余りにも有名な夢野久作の『ドグラ・マグラ』を元にして、その一部を抜粋脚色し舞台化しているのだが、原作は大作でしかも難解と来ているから、私も読破しょうと一度は懸命に試みたけれど、とうとう途中で投げ出してしまった。

読むだけでも相当な集中力を必要とする原作から、何をつかみ取り何を問題にしょうとしているのか。

私が察するに、現代社会の中で、精神を病むところまで追い込まれて行く現在の私達の姿が、原作の中にダブって見えて来るからではないだろうか。

大学の精神病科で「狂人の開放治療」が施され、その実験材料にされた一人の青年を中心にして、研究に携わる教授達やその研究過程、患者にまとわりつく妄想、そのエピソードなど、いろいろの内容が混在して来て、話が途中から分からなくなって行くのだが、私は今回もいい加減な理解で終わってしまった。

もう一度原作を読まねば批評は出来ないだろうと思うのだが、時間も無くて、また台本も届けてもらえなかったので、理解出来ていないところは許してください。

舞台は良く稽古が積んであり、最初から緊張感もあって、“凄い!これは本格的な格調の高い作品だ”と思った。観客もしっかりと惹きつけていたと思う。

プロの劇団でも滅多に取り上げられないこの特異な世界に、敢えて挑戦する ACTさんに脱帽。

 一言。

初演の時、患者の青年は男性がやっていたが、「お父さん、私は何故生まれて来たのか」と問いかける下りは、胸が打たれたのだが、今回は女性がやっていたせいか、少し印象に残って来なかったような気がした。



B‐2 コシヒカリのナナピカリ「ヘルツシュプルングラッセルず」

 “演劇部”という所はよく知っている所で分かり易い題材だから、そこによくある風景、俳優同士の葛藤 、演出と女優の関係、先輩と後輩の軋轢等々がよく描かれていて面白いと思った。

キャストにとっても、実際の自分が等身大でそのまま舞台に上がればよくて、自由に解放された面があり、ストーリーに沿いながらも即興的に場面を繋いでいる所が多々見受けられた。

俳優達も楽しみながら演じているし、観客にも楽しんでもらおうとするエンタメに重きをおく作品のようだが、それにしてはイマイチ盛り上がりに欠けるのは何故だろう。

私が思うに、その原因のひとつは、劇中劇の宇宙人との闘いの話の内容にあるのではないだろうか。( あまり面白くないのだ。)

それから、まるで“演劇部”を覗いているような親しみのある風景は、よく捉えられていてよく分かるのだが、それがダラダラと終って行くような感じのところで、突然新入部員の女子がみんなに銃を乱射し、それで終わりとなるのが、何だか唐突で考えこんでしまった。

でもそんなことはあまり考え込まなくともいいのだろう。

とにかく肩の凝らない伸び伸びとした愉快な作品になっていたと思う。



B‐3 ゆり子。「あ、東京。」

面白かった。

感覚的で感情に訴えかける作品ではあったが、観客の視聴覚を捉えて放さなかった。

これで“東京”を象徴させたのかと驚きもし感心もした、縫いぐるみのような塔の化け物が、舞台の端に立っていて、まるで大道具になってみんなを見下ろしているのだ。

そしてこの化け物が最後は人間(登場人物)を、全てを、飲み込んでしまう。

“東京”の意味するものは何だろう。

「寂しい」という孤独感だろうか。

父親の居た時は家族は一つに思えたのに、父親の死後、母親は残された財産で以て男遍歴に現を抜かし、その姿を傍で見ている娘の“はるちゃん”は、「家族とはいつでも一つであるべきだ」と思い、父親の骨を食べ、母親の指を食べて一つになろうとするのだ。

それから“はるちゃん”は、警察官の“みーくんと何時までも愛し合って一緒に居たいと思うあまり、互いの指を切りあって、互いを食べることで一つになったと信じて行く。

何とも言いようのない不条理な、現代の「愛の不毛」や「人間不信」や退廃や荒廃や等々が、砂塵のように東京から遠く離れた街にまで広がり流れて来て、染まって行くという作品だが、何もかもが東京一辺倒の日本の姿を捉えようとした、凄い作品だと思った。

少し残念に思えるのは、言葉で以て考えや意見が交わされるのではないところで、短い会話が散文詩のように何度も繰り返し挿入されて、リリカルに流れてしまうのだ。

 でも4人の少ない登場人物だけで、よく観客を惹きつけていたし、取り分けはるちゃんと母の役は、俳優にぴったりハマっていて印象に残った。

 (この作品は彼女達で助けられているところもあったと思う。)

 作・演出の渚ひろむさんに拍手を送ります。



C‐1  劇団ひととせ「楚々」

 何とも不思議な世界だ。

 男はバケツの水を飲んでいる。

 舞台中央近くに置かれた半透明なケースに、シャワーの音と共に女の姿が映し出される。

 ボールペンを握って何かぶつぶつ呟きながら、舞台に置かれたキャリーケースに躓く女。

 この不可解な3点が、男の“恋”という言葉で次第に繋がって行くのだ。

ボールペンの女はラーメン屋で男とラーメンを食べながら、男の恋焦がれる“その女”のことを男から打ち明けられる。(“その女”とはシャワーを浴びる女。)

何回も繰り返し挿入されるこのラーメン屋の描写が単純にして、また見事に面白いのだ。

目の上げ下げだけで、その店のアルバイトの女、即ち“その女”が登退場するのだから。

“その女”はラーメン屋の階上に住んでいて、この店に毎日通う男は“その女”に片思いをこじらして行く。

そして話は一転して“その女”が、住まいの屋上の貯水槽の中で死体となって発見されるのだが、果たして男が“その女”を殺したのか、ボールペンの女は追求して行くのだ。

それからまたこれも私を掴んで離さないのは、ラーメン屋の汁はあの貯水槽の水が使われていて、死体が発見されるまでに数日の日が経っていたとか、男の飲んでいたバケツの水は何だったのかとか、男の下着を被る姿とか、まだまだいろいろな場面が思い出されて気持ち悪くなって来るのだが......。

これらが現代の病んだ社会を切り取り映し出し表現されていることを、台本を読んでよく分かった気がした。

遅まきながら優れた作品だと知って感心している。

舞台は登場人物が三人だけで、観客を見事に惹きつけていたが、取り分け男を演じていた田中直樹さんの不思議な雰囲気は、演技なのかどうか分からないが、俳優としても魅力的だった。



C‐2 stereotype「なぞるなぞる」

 面白い。

 この作品は、いくつかの“なぞなぞ遊び”のパーツを挟みながら、いくつかのエピソードを寄せ集めて、男達の人生の遍歴を垣間見せる一遍の作品として成立している。

舞台は、飽きることがなく、大いに興味を持って観てしまうのだ。

これはまず、三人の俳優の力量と魅力によるところが大であるが、セミプロ級に思えた。

最初に引き込まれたのは、二人の男が卍のように体を絡ませながら、なぞなぞを始めるシーンだ。

このブラックユウモア的発想に拍手を送りたい。

演技についても気負いがなく、よく訓練された声音と物言いで、オーバーアクションするところも良く抑えて観やすかった。

ところで、次々に繰り出されて来る場面がたくさんあって、それを追いかけるのに手一杯で、笑っている中に舞台が終わってしまい、部分的な印象は残っているものの、全体が把握出来ないで、最後のオチは何なのかと首を傾げていた。

また、これはコント集とどう違うのかとも思ったりしていた。

台本を読んでみてストーリーなるものがスッキリ頭に入って来て、この台本はよく書かれていることが分かった。

オチは“なぞなぞ”で終わり、コント集との違いは、同じ男達を一貫して追いかけて行くところにあるのだと分かった。

とにかく面白い、斬新な舞台だった。



C-3 南極ゴジラ「贋作バック・トウ・ザ・フューチャー」

 いろいろ盛り沢山で、出演者も多いし、衣装もダンボールの作り物等々もいっぱい詰め込んで、何しろ賑やかな活気のある舞台であった。

 会場も満席で、笑いが絶えなかったし、作品に対する意気込みが感じられた。

 ところが原作の知らない私には、全体的に話がよく分からないところへ来て、タイムスリップした話は順序正しく進まないので、頭がこんがらがってしまうのだ。

 短い場面があっちに飛びこっちに飛びと目まぐるしく駆け回り、しかもテンポも速いので追いかけて行けないのだった。

 とにかく観劇後の感想は、ドタバタと動き回り、がなりっぱなしで、自分達は楽しいかも知れないが、面白さが伝わって来ないではないかと思ったものだ。

 でも出演者はみんな芸達者で、これがエンタメだと言わんばかりに、あの手この手で観客を楽しませていた。

 

 台本を読んでみたいと思っていたが、読んでみて話がよく分かり、大変面白いと思った。

 観劇前に読んでいたらまた見方も違って、細かいところにまで興味を持って観ただろうにと、今残念に思う。

 AIの依頼で、完成したタイムマシン・デロリアンに乗って、実験体として万吉は50年前の1968年にタイムスリップする。

そこで、万吉は自分の父と母に会い、自分の生まれるのを見届けてから、さて元居た2018年の場所に帰ろうとするのだが、・・・・パワーの無くなったデロリアンに、中央郵便局の時計塔に落ちる雷の電力を利用して、やっとの思いで。

ところが戻って来たそこには妻の姿はなく、元の同じ時点ではないという話で、タイムパラドックスが起こったんだと言うのだ。

万吉はまたタイムスリップして過去からやり直そうとするのだが......。

 作者に拍手を送ります。

 最近観た上田誠さんの『サマータイムマシン・ワンスモア』を思い出したが、「南極ゴジラ」さんの作品は、シーンが小間切れのところが、演劇的というより映像的になっているのではないだろうか。



D-1アンプレアブル「繋がりの火」

中学生で煙草を吸っていることを母親に咎められ、投げ捨てた吸い殻から家が火災になり、その火に焼かれて母親が死んでしまうというところからこの話は始まる。

 その呵責に苦しむ弟を、後悔の念から解き放って立ち直らせようと努力する兄は、自分も同罪だと弟と一緒になって、その責めを担って行こうと決意する。

そして愛する女からも別れて、弟を連れて岡山へ転勤することで、周りの目から逃げ出そうとするのだ。

 女は男の、愛する故に別れる気持ちに納得出来ずに悲しむ。

 

 作品は、この三人の登場人物だけに絞って、その心の襞を、吐露を、葛藤をリアルに描き切っている。

 ちょっとした不注意な行動から人生が狂ってしまい、取り返しのつかない誤りは二度と消し去ることがならず、周りの人間をも含めて苦しめられて行く姿を、三人の出演者は懸命に演じていて引き込まれてしまったし、感動的でもあった。

 台本も正当な本格的な感じのする、しっかり書き込まれた良い作品だと思った。

 一言。

お互いがどうしても分かり合えないところの演技が、芝居がかってしまい、オーバーアクションになるため、観客が劇の世界へ入っていけないで、引いてしまうところが多々あったが、そこのところが残念だった。

 それからこれはこちらの勝手な思いかも知れないが、舞台の後ろに置かれていた白い箱のような物は、きっと母親の骨箱か墓石だったに違いなく、それが子供をじっと見守っていたのだろうと思ったのだが、どうだったのだろう。



D-2劇団愉快犯「深海の羊―燃えよ鉄挙―」

 

 自主映画制作サークル“H2O”の看板女優と監督が、脚本タイトル『深海の羊』の映画撮影に取り掛かる。

━━例え天変地異に匹敵する想定外を前にしても意に介せず突き進む覚悟で━━

 

 高度な、洒落た、知的な喜劇だった。

 この会場の観客にはその面白さが分かるのか、よく笑っていた。

 劇中劇の中で、美味い肉の争奪戦でデストロやサメ人間と戦うデイジー一家を、監督と女優の二人で演じ分けてやったり、新聞をネタにしたり......何しろ喋る喋る、ひたすら喋ることで、ストーリーが展開されて行き、何時しかその世界に引き込まれているのだ。

 掛け合う二人のテンポも良くて、これはなかなか出来ないなと思った。

 また舞台美術も、おしゃれな二脚の、背もたれの高い椅子があるだけだったが、それがいろいろに見立てられ使用されると変容して、この作品に相応しいものに思えた。

 物語を展開して行く方法はいろいろあるだろうが、言葉でもって分からせて行くには、まずセリフを覚えなければならないが、この作品のように構想がしっかりあって書かれていると、即興では間に合わず、覚えるだけでも大変だったろうと思う。

 10年も喜劇を追い求めている「劇団愉快犯」さんだからこその舞台を観せてもらった気

がするが、大衆的なお笑いではない喜劇は、自らが自然と観客を選んでしまうのではないかと思うのだが......それも周知の上での格調の高い作品を目指されているのだなと思った。

 これは京都ならではの作品で、この劇団は貴重な存在だと思う。



D-3 LPOCH 「O3」

 青倉玲依さんの魅力がいっぱいの、印象的な舞台であった。

 ザウァーシュトック山草店で働く韓国の留学生、朱児玲は眠くて眠くてたまらない

 睡眠障害で、モンスターエナジーを常用している。

 何故過眠症に陥るのか、過眠症は病気なのか、その治療はままならないのか。

━━何を伝えようとして、延々と一つの状態、睡魔に襲われる状態を、繰り返し見せているのだろうか━━

 病気の原因として、職場の事や学校の事などがもう少し重きを置いて描かれても良かったのではないかと思うのだが、その方向ではなく、夢を見る話しが加わって来て、その夢は舞台に一人立たされた自分の状態を言っている。

 この作品は、何かが行動されて行くのではなくて、一つの状態を説明しているところにとどまっているように思う。

 俳優の感性が優れていて、見事にある状態を演じていて、しかも韓国語を喋らせて言葉の意味を不明瞭にしながら、観客の視覚に強く訴えて離さない。

( 韓国語はほんとうに喋れるのか知らないが、上手に思えたし、字幕の文字で助けられ、意味も分かって来るのだが。)

 観客は俳優の動作を追って行くが、それは決して退屈ではなく魅せられてしまうのだ。

が、それはどちらかと言えば、動物の芸を見ているのに等しいのではないだろうかとふと思った。

 不条理劇なら、既成の演劇を壊すとの考えから、同じ動作が延々と繰り返えされる作品もあるのだが、この作品はそうでもないようなので、初心に帰ってこの作品のテーマを絞られてはどうかと思った。

 この作品の中で、「今度姉さんを呼んで、京都の観光地を案内してあげたい」というような朱児玲のセリフがあったように記憶しているが、それが何故か心に残った。



E-1 睡眠時間「私が悲しいのは、あなたがわからないから。」

 芸術大学の皆さんは、日頃学校で鍛え上げられているものが、はっきり演技の上に出ていて、さすがだなあと思った。

 舞台空間の埋め方や衣装などにも工夫が凝らしてあって、全体的には非の打ち所がないように見えて、他校の舞台との違いも感じた。

 ただし作品の評価としては、少し型にはめすぎるというか、作為が目につき、現代を感じ難くさせていた。

 

 登場人物は、一組の姉妹と男と女の四人。

 姉は父の期待を受け、父も過ってやっていたと同じ卓球部で活躍しているのだが、ある日突然何もかも投げ出して家を出てしまい、男と同棲している。

が、その男との関係はなく、男も女からの誘いを待っている。

 妹は姉がどうしてそうなったのか、その事実(先生との関係)を見てしまったのだ。

 そして姉を批判的に見ている。

 女というのは男に惚れっぽくて、簡単に関係を結んで行く人間で、男にも関係をせまるのだが、男からは拒否される。

 青春時代の旨く行かない男女の関係を描いているのだろうか。

話の内容は、今回の演劇祭の作品にも多く見られる男女の関係を扱ったものだが、

 目新しいところがあまりなく、印象的に残らない幕切れだった。

 

 作品に求めるのは、斬新さであったり、思いもかけない幕切れだったり、その創造に携わっている人間の内なる声であったりするのだが......。

でもそれは人それぞれかも知れない。

 

 ともかく、ソツなくしっかり仕上がっている舞台だった。



E-2 劇団モンジュノ「初恋ミサイル」

 滅茶苦茶面白い。

 型破りで、今までの雰囲気を一掃する清涼剤のような作品は、会場にも爆笑が起こり、ほっと一息つけて和んだ,肩の凝らないものだった。

 まだまだタブーのようなセックスを大胆にも持ち込んで、現代を表現しょうとしている。

 登場人物は男三人だが、何人かの女がダミー人形で登場するあたり、生臭さがなく、むしろ滑稽さが増して愉快だ。

 俳優達も硬さがなくて、自然体で演じるものだから、役と本人がダブってしまい、ダミー人形と戯れて喜んだり悲しんだり、時にはセックスは遊びだと嘘ぶいたりする男達が身近に感じられて面白かった。

 ACTさんの昨年の芝居も観せてもらっているが、みんなずっと成長して大人になった感じがした。

 ところで、このような赤裸々に現実と向き合った作品も期待するところは大いにあるのだが、何故かこれが賞の対象になる範疇に入って来ないのは何故か。

 一般的には、何か難しいことを言っていれば、素晴らしい作品だと判断される傾向がある。

 そこへ「こんな低俗なものではいけませんか」と殴り込みをかけて開き直り、笑っている皆さんの大胆さ、大らかさ、自信のようなものが感じられた。

 

 賞なんか眼中になく、やっている者が大いに楽しんでいる。

 そしてまた観客を楽しませてくれた舞台であった。



E-3魔法の××らんど「どうしてもなれないあなたとすずのおと」

 3人の男と1人の女で繰り広げる、思い思われ振り振られの愛の物語が3本、オムニバス形式として並べられているようだが、上手く1本の作品として繋がっていて、作者・佐倉眞さんの強かさが分かるようだ。

 佐倉眞さんが演じる“すず”を巡って、友人でもある男3人の、個性的なキャラクターを基に、別々のドラマが描かれて行くのだが、佐倉眞さんを始めとして俳優はみんな自由奔放で、等身大の役柄を生き生きと演じているし、上手いとも思った。

 でも何か不満が残るのは何故だろう。

 それは、この作品はエンタメだと大掴みにして、面白さを強調させようとするあまり、自分の魅力や格好良さや上手さ等々、自分の持っている全てのもので勝負しようとそこに重点を置きすぎて、作品の内容よりも自分を見せつけようとするのが先に立ち、その思いが目立ち過ぎて、最後には幼さを感じてしまう、そこが残念だった。

台本を読むと、男3人の関係や、野球部の絡む学校での様子など、しっかり書き込んであると感心しているのだが、でも内容はそれほど目新しいものではないように思った。

( 魔法が使えたり、ブラジャーが体にくっつき外れなかったりの下りはあるのだが )

俳優ばかりが目についた舞台であった。

京都学生演劇祭2018

京都学生演劇祭2018ホームページです。 公演情報や団体情報など多くの情報を掲載しています。 京都の学生劇団が集い、「今、京都で最もおもしろい舞台をつくる学生劇団はどこか」という問いに答えを出すべく、2010 年に始まった演劇祭。2018年は15団体が京都に集い、演劇祭を熱く盛り上げます。

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